福音の特徴

virtus euangelii(福音の力)はscandalum(つまずきの石)の中に存在する。
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自殺が多い原因はGHQの占領政策?

 神谷宗幣氏の運営するCGSという動画で二つのことを学んだ。
 歴史学者の松浦光修氏が反日教育によって自国を否定することは自己肯定感を養わず、自殺を増加させるという説を紹介していた。もうひとつは、医師の銀谷翠氏がウォー・ギルト・インフォメイション・プログラムうつ病について紹介していた。

 私自身はキリスト教的環境の中で周囲の人間に極端な反日言動をみたり、過剰なまでの韓国人キリスト教界への卑屈な態度を疑問に思い、キリスト教教義学と思想史から日本人社会のエートス的なもの(社会的雰囲気、空気)を考えている。今日の日本人社会を取り巻く時代風潮のもつ自虐性、根無し草感、脱力感の原因はなんなのだろうか。

 戦後いち早く、より簡単に日本人を占領政策下に置くためにウォー・ギルト・インフォメイション・プログラム(War Guilt Information Program)による日本民族弱体化が推し進められ、その過程において日本悪玉・アメリカ正義論を軸にした侵略説・日本兵残虐説・軍国主義・民主主義などが展開される自虐史観が日本人の歴史的思考回路に植え付けられていった。

 自虐史観は国への愛、郷土への愛、先祖への愛、親への愛ひいては自身への愛を育むことがなく、自尊感情・自己肯定感がきわめて低く、常に覇気・活気・生気がなく、常に亡霊のように陰鬱な状態がつづき、いつの日にかは自死に至るという構図が出来上がっているように思う。

 ウォー・ギルト・インフォメイション・プログラムには日本人を自死に追い込む影響力があると思う。これは民族の命を廃らせる死のプログラムである。この死のプログラムは70年たった今も有効に実行され続けている。この点から考えると、ウォー・ギルト・インフォメイション・プログラムうつ病はいわば国民病と言える。日本人の自死、とりわけ青年層の自死を防ぐためにはいま思いつくままに挙げるならば、次のことが必要ではないだろうか。

 教育的課題として
 自虐史観の禁止。天皇陛下・皇室に纏わる教育、神話の学び、教育勅語の復活、皇室と密接に結びついていた祝祭日の復活、偉人伝の学びを行う。

 国際的課題として
 国際連合常任理事国の面々、とりわけ次にあげる国と地域、すなわちはアメリカ・支那・韓国・北朝鮮・旧ソ連は日本を悪玉とする<<嘘>>によって戦後の国際政治パワーバランスを自国有利に図ってきた。こんなでたらめを許してはならない。十戒の内「汝隣人について偽証するなかれ」を彼らに突き付け、抗議すべきである。(聖書に訴えてキリスト教文化圏に抗議するのは日本人が考える以上に有効。)

 内政的課題として
 戦前から日本の共産化をもくろんでいた共産主義の屍―いまだにその死臭でもって日本を毒している―が亡霊のように一部日本人に憑依したままであり、侮日・毀日が繰り返されている。これを滅却するには共産主義思想・団体の非合法化しかないだろう(少なくとも共産党結成・活動はアメリカや韓国では非合法である)。加えて、日教組や創価学会の撲滅、NHKをはじめとしたマス・メディアの改革も必要。

問題の本質はテロ?表現の自由?

フランスにおけるイスラム過激派によるCharlie関係者を襲ったテロ事件。
問題の解決を暴力に訴える手法が世界に恐怖をもたらし、怒りを買っている。

イスラム過激派の主張は預言者ムハンマドの風刺画はその図像化さえ許されていないのに掲載するのはイスラムに対する侮辱であり、神への冒涜行為であるというもの。
一方、Charlieの主張は表現の自由の一点張り。

一般に欧米文化圏においてはこの問題は表現の自由を守る戦いであり、テロに対する戦いと考えられている。
ここでひとつ、主義信条をテロという暴力行為に訴える手法は過去には共産主義に見られるが、とりあえず
暴力行為にまで訴えねばならなかったほど、ムハンマドの風刺画はイスラム教徒にとっては切実な問題であったと考えてみる。

すると、実はこの戦いが人権問題であることが見えてくる。
人権という天秤をイメージすれば、一方には表現の自由が、他方には信教の自由がはかりにかけられている。
信教の自由は人類が長い間戦ってきてかちえた基本的人権である。信教の自由にはその信仰内容を公共の福祉に反しない限り阻害されない、政府から干渉されないという内容がある。

いわば、表現の自由と信教の自由の戦いである。実際に信教の自由はJe suis Charlie!とかいうスローガンが掲げられて、かまびすしく叫ばれている。しかし、信教の自由という側面はフランス社会はもちろんのこと、国際社会ではクローズアップされていない。

そもそも、フランスにおける表現の自由としての自由は、フランス人権宣言に謳われている。このフランスの人権思想は宗教史的側面からは無神論の宣言であり、それまでカトリック国だったフランスを無神論国家へと変貌させた破壊力のある主義信条である。無神論とは神を亡きものとする思想であり、篤信家にとっては背筋の凍る思いのする思想である。神を殺した文化においては信仰に配慮するなどそもそもありえない。これはあらゆる信仰者―キリスト教徒・仏教徒・ヒンドゥ教徒などなど―にとって共通の問題である。

フランス国民は表現の自由とともに信教の自由という人権もあることを認識しなければならない。フランス政府は信教の自由を保護・保証する責任がある。それがイスラム教徒を移民として受け入れた国家の義務である。このことを考慮に入れ、対策を講じたうえで、いわれなきテロに対しては具体的対策を講じていかねばならないだろう。

平和運動と猥褻性と共産主義の結びつき

ろくでなし子(五十嵐恵)と北原みのり(渡辺みのり)という女二人が、おおまかにいうと自分の性器を公衆に晒すようなことをしたかどで警察沙汰になっていました。この事件で平和運動家はなぜ確信犯的に猥褻なことをするのか、という質問がありました。以下はそれに答えたものです。

平和主義と共産主義の関係
 平和主義運動の由来のひとつには共産主義思想があります。共産主義者は労働者全員が平等な暮らしができる共産主義国家の誕生のためには金持ちを全員殺す革命を起こそうという考え方をもっています。そういう物騒な思想を元来もっているのですが、少数派である彼らは戦略的には戦闘能力がありません。その場合、戦略的には情報戦をとります。ソ連や支那でなされた虐殺に由来する共産主義に対する悪い印象を拭うためのイメージ戦略の一つです。

 そしてもう一つ戦闘能力のない共産主義陣営にとって軍事力は自己の活動にとって脅威です。共産主義体制の誕生を訴える彼らの主張は反体制的です。しかし、主張するために表現の自由に訴えます。自分たちをとりしまう行為に対して暴力的だと訴えます。この暴力反対行動が平和運動という隠れ蓑をつけるわけです。ですからあらゆる軍事力の排除を訴えるわけです。こうして共産主義と平和運動は容易に結びつきます。

共産主義と猥褻性の関係
 共産主義はもともとロシア帝国体制下において差別されていたロシア系ユダヤ教徒たちがなんとかその窮状を脱したいと考え、その対策をドイツ人ユダヤ教徒であるカール・マルクスに頼んだのが始まりです。当時西欧全体においてユダヤ教徒は政治的視点からは伝統的王政下で差別に苦しみ、また経済的視点においても新しい自由資本主義国家体制下においても苦しんでいました。両者に共通する差別を生み出す精神史的背景には伝統的キリスト教人間観がありました。ユダヤ人が差別から逃れるためには旧来の伝統的価値観を覆し、新しい価値観を構築する必要がありました。この新しい社会哲学づくりにカール・マルクスが関わったわけです。

 ユダヤ教徒が差別されない社会体制作りのためにはまずキリスト教が邪魔です。そこで唯物論に基づいて無神論を展開します。無神論の各論的項目として各種のキリスト教倫理に基づく考え方・発言・行為が疑問に付されるようになりました。物の見方は神や君主、資本家の視点からではなく、民衆・労働者の視点から見直されるような動きが出てきました。具体的に言うと、たとえばプロテスタントの倫理における性風俗は厳格なものがありましたが、これを打ち壊すことが企図されました。もっと猥雑に本能のままに感情を表現しようという考え方が生まれました(フリーセックス、フェミニズムなど)。

 この考え方は絵画、音楽、演劇、映画、小説などにおいて具体的な表現の広がりを見せます。猥褻であること、破廉恥であることがさも最先端の文化であるかのように喧伝されていきます。ユダヤ人を苦しめていたあらゆる伝統的価値観の徹底的破壊によって生のあらゆる領域・分野においてキリスト教的価値観から離反し、世俗化が起こります。ここに共産主義と猥褻性の結びつきがあります。要するに猥褻性は共産主義伸長のための一表現・一主張に過ぎないのです。

平和運動と猥褻性の関係
 共産主義者の平和運動は他の平和主義団体と融合し、大きな運動となり、一般の関心を集めました。これは平和運動が市民権を得たという事です。平和運動に関わる人間のなかには共産主義を意識せずとも、関心がなくとも共産主義文化にそまってしまい、はっきり言ってただの馬鹿であり、思想信条などという高級なものをはもちあわせていない輩がなりゆきでいわば過去の遺物である共産主義のやり口に知らず知らず乗っかっているという事もあるでしょう。上の不埒な2人の女もおそらくそんな部類でしょう。

殺人事件の罪の償い方と死刑制度

殺人事件を犯した犯罪者はどのように責任を取ったらよいのでしょうか。
本当に自らの犯した罪について後悔と反省をしているのなら、それを自死という自己制裁という形で実現するべきではないでしょうか。

あらゆる殺人犯に対して、たとえ法律に基づいて死刑という判決が下らなかったとしても、真に反省をしているのならば生まれ変わった自分に対して自死というかたちで自己制裁を下すことを通してその真の反省を示して詫びるべきですし、またそれができることでしょう
真の反省をしていることが自死という形でかなりわかりやすい形で示されるわけです。中にはたとえ死刑であっても、あるいは自殺であっても一向に反省せずに終わりを迎える例もあるでしょうが。

国民の血税を費消する殺人犯の刑務所生活は自己制裁としての自死を実行するまでの猶予期間とすべきです。

心を改めてまっとうな社会生活を送ることや刑務所暮らしで刑期を全うすることが被害者へのなによりの供養になるというのは、加害者側の自己保身に根を持つ勝手な論理です。そんなものでは供養にはなりません。殺害されるときに被害者がもった恐怖・無念・激痛・苦悩・憤怒はそんな偽善では拭われることはありません。

死に対しては死でもって応えるのが道理です。死刑廃止論が世界的な潮流ですが、これは西洋キリスト教が世界にまき散らした精神的害毒であり、被害者の人権を冒涜する思想であり、行為です。

但し、キリスト教徒が信仰と生活の基準としている聖書には<<人を殺した者を死刑にしてはいけない>>などということは記されていません。死刑廃止制度を後押しするキリスト教徒の考え方はすべて聖書から離れた人権思想に由来するものです。その人権思想とは理性による開明を基礎におく啓蒙思想です。さらにその淵源は理性の人類普遍性と博愛を説いたストア主義思想です。しかし、そうはいっても西洋社会においてストア主義を淵源にし啓蒙主義を経由してキリスト教文化圏が死刑廃止思想を広宣しました。その点から言えば、キリスト教の責は免れえません。
プロフィール

 軽部勇人

Author: 軽部勇人
A missionary in this Cyber Church

職業:医療関係
過去には10年ほど某教会の牧師をやっていました。他にもアルバイトを含め、さまざまな仕事を経験してきました。

趣味:哲学書・神学書の翻訳味読、歴史書精読(近現代史)・戦国史研究、民俗学研究

特技:ランニング
35年以上やってます。
10代は走力の限界への挑戦。
20,30代以降は身体的・精神的カタルシス効果の獲得。

信条:近現代史に関して、おそらく日本でオンリーワンの認識をもつミッショナリーです。反日活動家の侮日発言や特亜三国の歴史捏造に対してプロテスト(抗議)します。

なお、統一教会、ものみの塔、モルモン教会とは関係ありません。

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