いざなぎ流神道の起源―4―

いざなぎ流神道の起源の研究

―天の神・御﨑祭祀の起源に関する考察―

前回からの続きです。歴史に興味のある方はご一読ください。

5-2.山﨑家平氏説に天の神・御﨑祭祀の起源を求める場合
  兵庫県美方郡香美町香住区余部に御﨑(みさき)という地区がある。ここは平教盛と家来が逃れたという平家落人伝説の地である。壇ノ浦の合戦に敗れた平家の武将達は海路隠岐、対馬へ逃れようと壇ノ浦から漕ぎ進めたが、日本海に出てから強いシケに遭い、因幡、但馬の海岸に押し流されてしまった。

この御﨑には平家一門のうち、門脇宰相平教盛 を大将とし、幼帝安徳天皇の衛士の大将伊賀平内左衛門家長、その子光長、矢引六郎右衛門、小宰相局など一行七人が命からがら漂着した。一行が御﨑のある伊笹岬の沖にさしかかると一条の煙が見え船戸に漕ぎ付け、それを頼りに崖をよじ登って行くと高野聖の森本(もりもと)浄(じょう)実坊(ざねぼう)という修験者がいた。一行は小麦の蒸し物をクズの葉にのせて施され飢えをしのいだ。
  
  塩の山﨑家本家は系図によれば門脇公家の流れである 。そのことから平家方(桓武平氏)と考えられる。さてここで山﨑氏は自家の天の神・御﨑祭祀を平家の流れであることを自覚して秘匿したと考えられないだろうか。
  
  次に兵庫県の御﨑地区におけるなにがしかの宗教習俗と天の神・御﨑祭祀の間に関係性があるのかという問題である。御﨑地区には平内(へいない)神社がある。正治2年(1200)の創祀である。現在の祭神は野(の)椎(づちの)神(かみ)(別名:鹿屋野比売(かやぬひめの)神(かみ)、草野(かやぬ)姫(ひめ)、萱野媛(かやのひめの)命(みこと))だが、社名が示す通り、本来は当地に住みついた平家の武将平教盛と伊賀平内左衛門家長の御霊荒神を祀る神社である。境内近くに平教盛の墓がある。寛延三年(1750)に御﨑大明神と改称している。

さらに宝暦九年(1759)に三寶荒神山王権現と改称し、明治六年十月、村社に列された。ここには現在も伝承されている平家にまつわる行事の一つ百手(ももて)の儀式が毎年1月28日に行われている。氏神の平内神社で門脇、伊賀、矢引の武将に扮した3人の少年が境内の御神木に源氏に見立て掲げた的めがけて竹で作った弓矢で101本の矢を射るものである。歩射という弓の神事から始められたといわれている。平家の無念を晴らすとともに、士気を鼓舞し平家再興を夢見て受け継がれてきた伝統行事である。

  天の神・御﨑信仰と比較した場合、まず平内神社が平家の御霊荒神を祀る点が異なる。このことから平内神社の祭祀は荒神祭が主体であることがわかる。他方、いざなぎ流神道については平家の御霊を鎮めるという側面は『いざなぎ流の研究』を著した小松和彦氏の研究からはうかがえない。ただ、宅神祭(家祈祷)の終わりに鎮めがあり、これを荒神の鎮めとか荒神祭といっている。しかし、これは平家の怨霊の鎮めが目的なのではなく、祭りの騒ぎで目覚めたかもしれないさまざまな荒神を丁寧に鎮めていく性格のものである。

但し、『物部村史』321頁に「いざなぎ流四季の歌」について興味深い記述がある。それを引用する。『いざなぎ流四季の歌は、…槇山山中にあって、つきない恨みを心に秘めた平氏の人達が、源氏調伏の盛大な日月祭を行った際、四方に榊を立て、中に三十三の俵を積んで大きな綱をつけ、「ひこやれ、ひこやれ」といって引きながら式の歌を唱えて神々を喜ばせたのに始まるという』(原文修正して引用)。つまり、日月祭は御﨑祭りに付随して行われるものであるが、御﨑祭りの際に源氏調伏の祈念がなされていたというのである。但し、この記述は宗教学あるいは民俗学の専門家によるものではないため、その真偽のほどは不明である。 

  民俗学者の小松和彦氏によると、日月祭はいざなぎ流神道で最も重要な祭りとみなされており、太夫以外の人々の間では「天道精進」とか「天道様を祀る」と呼ばれており、太陽や月を神格化したものである。日月祭に関して御霊鎮めの側面は記されていない。

  なお、しかし、いざなぎ流神道には病人祈祷などに使う「式を打つ」という呪術行為がある 。これは平安時代の陰陽師が用いた式神に相当する。その裏の使用法は「裏式」と呼ばれている。裏式は他人を呪うなどの因縁調伏の法であり、その使用を公言することがはばかられるような式法の使い方である。こうした裏式が実在する以上、源氏調伏が行われることはなかったとは断言できないのではないか。昔は源氏調伏が祭祀において裏式などによって行われていたが、時とともに廃れていったとも考えられなくもない。翻って四季の歌と式法を考え合わせるとき、四季の歌はもしかすると「式」の歌であって、四季の歌とは実は「式」をかけた源氏調伏の歌かもしれない。以上から天の神・御﨑祭祀に御霊鎮めや源氏調伏の要素がないとは明言できないと考える。
 
  百手の儀式は弓を用いる点が天の神・御﨑祭祀における弓祈祷と接点がある。しかし、天の神・御﨑祭祀では弓はあくまで祈祷の道具として用いられるのであって矢を放つという行為はない。こうしたことから、単純に比較した場合、両者に接点はないと考えられる。

  次に地理的視点を持って考えたい。御﨑地区のある香美町は藩政時代の古代の行政区画でいえば但馬国に所属している。但馬から丹波へと向かい、京都に上ることは難しくない。御﨑地区において平家落人として生きていた一族が、数百年を経る中で京都に移動し、そこから土佐へと最終的に落ち着いた。赤鬼一族は旅の一行の中に御﨑における信仰を伝える宗教者を伴って土佐の室津へ落ち着き、さらに元親公に仕官し、槇山に給地を得て塩に来たのではないだろうか。おそらく、赤鬼一族は槇山に来てみると、これまで自分たちが平家方であることを自覚して生きてきたように新しい地においても平家の落人であることを自負して生きている人々に遭遇した。赤鬼一族は地名の山﨑を家号とした。山﨑氏が祀る天の神・御﨑祭祀には長年月の間に各種の信仰儀式が要素として加わった。

とりわけ、京都においてその宗教的多様性は豊かになったと推測される。山﨑家における天の神・御﨑祭祀の担い手である宗教者はおそらく太夫と呼ばれ、彼らは各地で触れた諸宗教すなわち陰陽道や密教・修験道、巫女の信仰、神社神道、アニミズム的な信仰をとりいれていったのではないか。この経緯がおそらく天の神祭りの起源伝承である「柿の火手に京鎌倉の位を取りたるあまうば三省(さんじょ)のみこ神」 に表されているのではないだろうか。その意味は天の神の祭式次第を京都で学んだ「尼姥三省のみこ神」が柿の火手に住んでいたということである。

山﨑家に伴ってきた宗教者はおそらく戦乱を逃れてか、あるいは宗教的環境を求めて別府に移住した。そして尼姥三省のみこ神は惣の市家の先祖となった。小松氏は上掲書において中尾貞義太夫の家の前の小宮には「そうかんま方のみこ神」(惣官魔法のみこ神)が祀られており、この宮はいざなぎ流を編み出した平家落人一族の姫を祀ったものと伝えられている旨を紹介している。この姫がたとえばあくまで憶測であるが赤鬼の娘であったかもしれない。

  山﨑氏がもたらした祭祀は槇山に来てからも在来の信仰習俗と混淆していったと考えられる。槇山の地元民は山﨑氏の武勇とともに祈祷や呪術に恐れをなすとともに縋りもした。たとえば、家人が病気の際には太夫に祈祷をしてもらっていたかもしれない。そしてそのときに用いられたのが弓祈祷である。そうした力のある太夫は他の豪族にも重宝され、天の神・御﨑祭祀は分霊が為され、祀る家が増えていったのではないだろうか。

  平内神社が御﨑大明神と改称されている点については、あくまで祭神は平家落人であって御﨑という神が祀られているわけではないことに留意しなければならない。この点については直接的には天の神・御﨑祭祀との接点はない。しかし、但馬の御﨑という地域における平家落人の信仰や習俗が総体的に「御﨑」と表現され、御﨑様と呼称されるほど信仰態様をあらわす名称となったという可能性は考えられないだろうか。

そのことはつまり、御﨑神はなにがしかの1個の人格を持つ神ではないということでもある。そのため「御﨑祭祀の祭神は何か」という問いには祭神名をもって答えることはできない。そして御﨑祭祀とはおそらく天の神(お天道様といったニュアンスでよく、その祭り方が日月祭である)や大将軍(方位神)と同一であり、その本質は平家落人としての御霊鎮めや源氏調伏を根源とした祈祷や呪術であり、祭祀的特徴として秘匿的性格を常に有し、そのため口伝で受け継がれ、それに加えて各時代・各地の宗教習俗の影響を多分に受け、槇山に来てからは近世初期に大庄屋の岡内右京亮によって天の神の大座として祭儀形式が体系化され、規模が拡大され、それまで区分が明確でなかった神々の特徴が明確にされた、と考えられる。

しかしそれ以前からの旧家ではかわらず神々の区別があいまいなまま祭祀が守られ、しかし時代の推移とともに祭儀のいくつかが廃れ、次第に伝承や祭儀形式そのものが断片的になっていき、今日のような形になったというのが真相ではなかろうか。(つづく)
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キリスト教神学への思いの共感をみつけた

 現代フランス思想家のジャン・リュック・マリオンのDieu sans L'etre(『存在なき神』)を読んでいることを以前に書きました。
現在進行形なわけですが、以前よんだ箇所をちらちらっと何気なく読み返しているとenvoi(献辞)のなかの次の冒頭の一文が目に留まりました。

      Il faudrait enfin avouer que la theologie, de toutes les ecritures, cause sans doute le plus grand plaisir.
      あらゆる著作の中で神学はおそらく最大の喜びをもたらすものであることはやはり認めざるを得ない。

  わたしは神学教育を二つの神学校で受けました。神学生であったころ、講義のある日には自主学習を5時間以上、講義のない日は少なくとも10時間以上を学びに費やしていました。それだけ神学研鑽に熱心でした。教授からはよく体を壊さないように心配されました。それでも神学研究が楽しくて仕方ない、本当に充実感を覚える日々でした。もちろんいろんな悩みや不安を抱えていましたが。。。そのときの思いは日記帳にもつづられています。その思いをまさか哲学者の著作に見出すとは思いもしませんでした。

いざなぎ流神道の起源―3―

いざなぎ流神道の起源の研究

―天の神・御﨑祭祀の起源に関する考察―

前回からの続きです。歴史に興味のある方はご一読ください。

4.家紋からの先祖特定の試みによる天の神・御﨑祭祀の起源の追及
   家紋から先祖を特定し、そこから関連氏族に天の神・御﨑祭祀はないかを確認してみる。『物部村史』において山﨑氏の家紋について「紋は○図赤はた 也」と記されている(466頁)。○図の部分には○枠に日の丸扇の絵が描かれている。つまり、山﨑家の家紋は○に日の丸扇である。旗色は赤色であることから、山﨑氏が平家方であることがわかる。古代では扇に神霊が宿るとされ、風を送り「神霊を仰ぎ寄せる」ことを意味している。

戦国時代、武将が軍扇を持ち全軍を指揮したのも、神意によって勝利を祈念したからである。扇の家紋は佐竹氏、浅野氏、立花氏など多くの使用家がある。ちなみに、佐竹氏は清和源氏の一家系河内源氏の嫡流である。浅野氏は清和源氏頼光流土岐氏の庶流である。立花氏は豊後大友氏の流れである。三氏とも平家ではない。山﨑家の家紋がほかにも平氏の流れの家系に用いられていたならば、その家筋からその家の氏神あるいは祭祀を追求し、天の神・御﨑祭祀と比類できるのではないかと考えたが、この試みは成功しなかった。

5.山﨑氏を起源とする仮説
5-1.山﨑家源氏説に天の神・御﨑祭祀の起源を求める場合
  15世紀終わり頃あるいは16世紀半ば頃に赤(あか)鬼(え)もしくは兵庫と名乗る人物が一族とともに長宗我部氏の配下につくことによって槇山郷に入ってきた。彼らは大字山﨑小字塩に落ち着き、その地名を姓として名乗った。これが槇山郷における山﨑氏の始まりである。山﨑氏は後の『槇山風土記』(1815年)によると、門脇公家の流れであり、京都から下ってきたと伝えられている。

  天の神・御﨑祭祀の起源について私は次のような仮説を立てる。すなわち、元来赤鬼ら一族は源氏方ではなかったのか。赤鬼ら一族が源氏方であったことを家紋は暗示しているのではないか。上記において山﨑氏の家紋は○に日の丸扇であり、それと類似する氏族には佐竹氏と浅野氏があり、その二氏は源氏方であることを示した。ときは戦国時代、おそらく自らの所領があった地でおこったなんらかの戦の影響で一族全員が京を離れねばならない状況に陥った。彼らは最終的に土佐に落ち着いた。ところが、山﨑氏が槇山村に来たときに都合の悪いことが生じた。そこは平家落人伝説がある地域だったのである。そこで保身のために平家方を名乗ったと考えられないだろうか。そして、その権威づけのために門脇公家の流れを騙ったのである。その証拠として山﨑家の氏神は八幡神である。八幡神は元来源氏の氏神である。

  ここで上記の岡山県倉敷市有城にある御﨑宮に関心を向けたい。寿永3年(1184)の源平合戦のおりに、佐々木盛綱が高坪山に陣を張り八幡宮を合祀した。合戦に勝利した佐々木盛綱が、神威に感激し現在の地に遷宮社殿を建立した。源氏一族が御﨑宮を建て、そこに八幡宮を合祀したというのである。この場合、いわば御﨑宮と八幡信仰が組み合わされている。この点について塩山﨑家本家でも御﨑祭祀と先祖八幡を祀っていることと類似している。つまり、山﨑氏を名乗るようになった赤鬼と山重の父子は先祖八幡の宮を塩の道(塩などの物資の運搬に使用された日常生活道)の口付近に建てた。

当時は平家方であろうと源氏方であろうと八幡信仰は普及していたために大事には至らなかった。もし、山﨑家の御﨑祭祀と源平合戦の折に勝利した佐々木盛綱が神威への感謝として遷宮した御﨑宮とが関連しているならば、御﨑祭祀は再生の神であるという小松和彦氏の見解と符合しなくなる。私の仮説では御﨑祭祀そのものに戦勝との関わりがあると考えられるからである。ところで御﨑祭祀には弓の本地の祭文がある 。つまり、弓を祭りにおいて用いるのである。ということはやはり御﨑祭祀の性格は戦いの神ではないのか。御﨑祭祀が戦いの神であるとすれば、岡山県の御﨑神社と結びつきが強まる。但し、岡山の御﨑神社では御﨑神が祀られているわけではない。

  佐々木氏の家紋は檜扇四つ目結である。一方、山﨑家の家紋は日の丸扇である。山﨑氏は平家落人伝説のある槇山郷で生きていくために平家との関係性を謳い、家紋を扇という枠組みは変えずに佐々木氏所縁の四つ目結を日の丸に変更したと推測しうる余地もある。

  源氏方である赤鬼一族は氏族名を源氏から平氏に変え、家紋を変え、地元の地名を家号とし、御﨑祭祀と八幡信仰を槇山郷に持ってきた。先祖八幡の宮は塩の道の口付近に構えた。そして御﨑信仰はその由緒から自家の出自が源氏方であることが露見するのを恐れ、屋内で祀るようにした。山﨑氏が槇山に来た時、宗教者が一行の中にいた可能性もある。

その宗教者は早い時期に戦火を逃れてさらに奥の方に、槇山川上流地域に移動したのかもしれない。それが後に別府の惣の市の所属する巫女の一団であったかもしれない。おそらく巫女は山﨑氏がもたらした天の神・御﨑祭祀のうち、奥の別府や市宇などの地元の一領具足の武家から求められた御﨑神をしばしば分霊したのではないか。その結果として、槇山川上流域には御﨑祭祀が多く、その下流域には比較的耕地が多いことから農耕の神を求められたため天の神祭祀が多くなった 。例えば、その例が専当氏である。また、新来の山﨑氏はそれまで塩部落を支配していた、外来者として先輩ではある高瀬氏に夜襲をかけてその支配者の地位から一夜にして引きずりおろした。

その後、高瀬氏は山﨑氏によって祭祀職が許されたのではないだろうか(後の山﨑の勾(こう)当(とう))。元来、秘匿にしたい、武勇に優れた山﨑氏の崇拝する神は近隣の名でも有名になり、おそらくある程度平和になってからであろうが他家から分霊を請われた。そこで力のある神として槇山郷を中心に崇められ、その評判は次第に槇山以外にも及んでいった。塩の道の往来によって外来の力ある神ということから他地域にも普及していったと推測される。

  江戸時代に入って太平の世になると、戦神に対する信仰は衰微した。戦がなくなったからである。山﨑氏が持ち込んだ外来宗教である天の神・御﨑信仰は旧家が祀る神として槇山村一帯に認知を得ていったのではないか。さらに、18世紀になって天の神・御﨑祭祀が復活した。それは専当家の分家である岡内村の名本家一族である小松家が槇山郷大庄屋にふさわしく自らの出自を平家落人に措定し権威づけし、小松家の興隆・安定を期したものであった 。(つづく)

徳島にあるユダヤ教の痕跡―祇園祭・ネストリウス派キリスト教

  こちらの動画に徳島県にユダヤ教の痕跡があるというテレビ番組がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=N4TR32mPxrs
こちらは完全版、the roots of Japan were ancient Israel?

  結論から言うと、ユダヤ教の痕跡ではなく、ユダヤ教の伝統を受け継いだキリスト教の一派であるネストリウス派の痕跡というべきでしょう。以下のその消息を記します。

  キリスト教の一派ネストリウス派は、コンスタンティノポリス総主教ネストリウスにより説かれ、431年、エフェソス公会議において異端として排斥されました。中国へは、唐の太宗の時代(在位626~649年)にペルシア人司祭阿羅本(アラボン)らによって伝えられ、景教と呼ばれました。景教とは中国語で光の信仰という意味であり、景教教会を唐の時代、大秦寺という名称で建造されました。

  9世紀は空海らが遣唐使として唐の長安に留学した時代です(空海は804年に長安で密教を学び、806年に帰国)。そのころ、長安ではユダヤ教の名残が強くあったキリスト教ネストリウス派(景教)が大秦寺を中心に広がっていました。空海も留学時にこのネストリウス派に触れたのではないかといわれています。

  845年、武宗によって外来宗教が取り締まられ、ネストリウス派は衰微していきます。おそらく、このときにネストリウス派教徒たちは長安を離れたのではないかと思います。ちょうど838年に円仁らが遣唐使として派遣され、847年に帰国しています。ネストリウス派教徒は遣唐使を通じて知った日本に円仁らの帰国便で渡来したのではないでしょうか。

  あるいはもっと早く日本にネストリウス派教徒は渡来していたかもしれません。もともとペルシア人の宣教師がシルクロードを通って長安にまで布教に来たのが中国におけるネストリウス派の始まりであるといわれているぐらいですから、非常に布教熱は高く熱心な一派でした。そんな彼らが長安にとどまったまま100年,200年と過ごしていたようには思われません。おそらくさらに東へと布教したことでしょう。そのルートは単純に地政学的に考えて朝鮮半島から日本へというパターンが考えられます。

  たとえば、秦氏の祖先は、720年に完成された『日本書紀』には百済系渡来氏族であるといわれており、弓月君が百済の127県の人民(19万人)を率いて帰化したとの所伝があります。中国にネストリウス派が伝来した時期を考えると、少なくとも720年以前に秦氏を名乗るネストリウス派教徒が日本にわたってきたという説も不可能なことはありません。

  渡来したネストリウス派教徒は京都太秦に落着き、帰化したことでしょう。彼らは先進の文化文物を所有しており、朝廷から重んじられたことでしょう。彼らは長安にあった本拠寺の名称の大秦寺から一字をとり、秦(はた)という氏を天皇から賜り、各地に神殿(教会堂)を建設し、そこを信仰生活の拠点としたように思います。太秦を中心に教勢は拡大し、今日の秦氏関連の神社が各地に残っているのではないでしょうか。

  ヨーロッパでは14世紀に疫病(ペスト)が流行しました。その時にある地区だけペストによる死者が出なかったということがありました。その地区はユダヤ人街でした。その理由はユダヤ人は宗教儀礼としてのみならず、生活の中で手を洗うことや沐浴が浸透しており、この衛生観念がペストの罹患を防いだのではないかといわれています。同様のことがヨーロッパに先んじて日本で9世紀に起こっていたのではないでしょうか。

  朝廷は疫病の流行により863年に神泉苑で初の御霊会を行いました。しかし、その後も疫病の流行が続いたために御霊会を行って無病息災を祈念しました。そのような社会状況の中で869年に御霊会を執り行ったのが祇園祭の起源であるといわれています。京で疫病がはやったこの時期に衛生観念の発達していたこのキリスト教徒たちは当時の日本社会に衛生習慣を浸透させ、防疫に寄与したのではないかと思います。そしてこの出来事を記念して始まったのが祇園祭なのではないでしょうか。尤も、この祭りの起源は旧約聖書であり、ネストリウス派キリスト教徒がユダヤ教徒から受け継いでいた宗教儀式だったのでしょう。

  のちにこのキリスト教徒らのうち一部は徳島に移住したのではないでしょうか。おそらく布教目的あるいは政争関連かもしれません。そのため徳島のある地域には秦(はた)姓が多く、秦氏関連の神社があるということなのではないでしょうか。ネストリウス派キリスト教はユダヤ教の影響が強かったため、当時の教会堂(神殿)=今日の秦氏関連の神社にメノラー(七枝の燭台)が徴として残っているということのように思います。

戦地売春婦賠償請求問題について

先ごろ、河野談話の再検証の結果が菅官房長官から発表されました。
慎重な発言は韓国外交の成り行きを案じてのことでしょう。

さて、この戦地売春婦賠償請求問題についてはつぎのような観手も必要と思います。以下は私が他所に事寄せて記した一文です。引用します。論敵は「従軍看護婦募集」という広告に騙されて多くの朝鮮人女性が慰安婦にされたということを述べていました。それに対する反論から始まります。

(引用開始)
「従軍看護婦募集」の広告で朝鮮人女がだまされたというが、それも嘘だろう。というのも従軍看護婦は看護婦資格が必要。また従軍看護婦というとそれは軍属であって「現地で募集されて」人員確保されるような職種ではない。また、当時、朝鮮人看護師がいたのか(笑)。さらに、その募集看板をつくったのは朝鮮人女衒ではないのか?

日本兵はというか、日本人は他国のというか支那や朝鮮の人間に比べて実に倫理観・道徳観が強く人間性がよくできている。そんな人のよい彼らが親に売られた売春婦を相手にして「かわいそうに」などと思うのは想像に難くない。支那人や朝鮮人、はたまた契約社会で生まれ育ったイギリス人やアメリカ人、ドイツ人、ロシア人であれば、さっさと事を済ませばもうまったくの無関係であり、感傷に浸ることもなかろう。ただ、善人で感傷家の多い日本人の場合、この気質がことさら日本兵の回顧録に罪悪感を記録させ、それが左翼によって犯罪の証拠資料と得手勝手に用いられているのが現状である。この戦地売春婦賠償請求問題は南京事件とともに善意の塊ですぐに自らに非があると思い込みやすい日本人の気質をも考慮に入れながら考え、対処しないと結局のところ真実は見えない。善人が悪人によって搾取される典型である。善人の集団が悪人の集団によってなぶりものにされているのが今のこの現状である。
(引用終了)

いざなぎ流神道の起源―2―

いざなぎ流神道の起源の研究

―天の神・御﨑祭祀の起源に関する考察―

前回のつづきです。

2.なぜ天の神は屋根裏で祀る必要があったのか
  天の神は近世を通じて槇山の旧家で屋内神として祀られていた 。なぜ屋内神として隠して祀ってきたのか。祀っていることが公になってはならない理由は何だろうか。この点に関する小松氏の説明を以下に要約する。

  明治新政府が成立すると、王政復古の下に政治を神武創業以来の祭政一致に戻すことになった。神仏混交の祭式は廃止され、純粋神道の要素ではない神道  護摩や神道印、神道加持等の行事や陰陽師、弓祈祷等も禁じられた。こうして神社神主の任命権は国家や県が握ることになり、太夫職は公式にはその職を解かれた。もともと槇山では天の神を屋内で祀っていたが、太夫は官憲の目を逃れて祭儀の多くを屋内でするようになった。なかでも旧家は天の神を屋根裏のサンノヤナカで祀るようになった。以上が天の神をはじめとしたいざなぎ流神道の神々を隠すようにして屋根裏で祀るようになった経緯である。
  
  上の見解について疑義を呈したい。というのも、官憲の目を逃れるのであったならば、いくつもの旧家が祭祀していてはまずいのではないか。また、戦後は隠す必要がなくなったわけであり、サンノヤナカという隠し場所は必要なくなったはずであり、幣等を屋根裏から降ろし、単に屋内に設置するようになってもよかったはずである。

  大栃在住の宗石力雄太夫は、いざなぎ流神道は明治維新における廃仏毀釈による隠れ仏教崇拝ではないか、と考えている。しかし、それにしては秘密の仏像や経典の類がみられない。また、経や題目を唱える習俗が残っていてもよさそうなのに、そうした習俗はない。

3.起源追及への複数のアプローチ
3-1.御﨑という名称を巡るアプローチ
3-1-1.各地に存在する御﨑という神社名からのアプローチ
  外来説についていくつかのアプローチを試みたい。まず御﨑関連でいえば、そもそも「オンザキ」という名称に注目してみる。「御」は敬称の接頭辞である。問題は「﨑」である。﨑は一般に岬を意味する。岬といえば、川の蛇行と山地が作り出す山の岬もあれば、海岸にみられる岬もある。各地に御﨑神社がある。例えば、岡山県倉敷市有城である。その由緒は古く、この付近が吉備穴海と呼ばれる海であった頃から高坪山の山頂に御﨑宮が祀られていた。その後寿永3年(1184)の源平合戦のおりに、佐々木盛綱が高坪山に陣を張り八幡宮を合祀した。

  合戦に勝利した佐々木盛綱 が、神威に感激し現在の地に遷宮社殿を建立したとされる。祭神は大己貴命、吉備津彦命、応神天皇、神宮皇后、武内宿称である。岡山県内には御﨑神社が数か所に分霊されており、複数の御﨑神社がある。読み方はオンザキであったり、ミサキであったりする。そのなかで岡山市北区北方の御﨑宮(おんざきぐう)は地元では御﨑(おんざき)様(さま)と呼ばれている。だが、槇山の御﨑祭祀とこれらの御﨑という名称の神社とは由緒や祭神、祭日に関して関連性はない。そのほかにも御﨑神社は宮﨑、鹿児島、和歌山、宮城と全国各地にある。なお、御﨑神社は香北町美良布の大川上美良布神社の境内にもある。

3-1-2.塩という地名からのアプローチ
  御﨑は岬を意味し、海と関係があると考えられる。海とかかわりがある信仰と言えば、当時貴重品とみなされていた塩があげられる。塩に関する信仰としては全国に存在する塩釜神社がある。有名なのは塩の作り方を教えた人物を祀る宮城県塩釜市の鹽(しお)竈(がま)神社である。しかし、そこには塩そのものを祀る信仰はない。香美市物部町山﨑には小字(枝村)の塩部落がある。塩に関連する地名であることから、塩信仰との関連性が推測された。しかし、結果としては塩部落と御﨑祭祀と塩信仰の結びつきは類例が見られず、このアプローチは見通しが明るくない。

3-2.天の神という名称からのアプローチ
 天の神を祭神とする体系的な祭祀はいざなぎ流神道のほかにはない。なお、小松氏は岡内家の天の神祭祀は岡内右京亮が槇山郷大庄屋となったことを期してその安定と興隆のために専当名にあった五座五等祭を基礎に創出した可能性があると考えている 。

3-3.複数のアプローチの結果
 起源追及への上記の複数のアプローチは成功しなかった。御﨑や天の神といった名称から他地域に類例を見出し、それとの比較考察によって起源を類推することはできなかった。(つづく)

いざなぎ流神道の起源―1―

  民俗学への関心からいざなぎ流神道の起源についてまとめました。以後、数回に分けてupする予定です。民俗学に関わらず、歴史に興味のある方はぜひご一読ください。
  なお、論文原稿には詳細な脚注(出典、根拠、傍説など)を設けていますが、ブログ版ではそれを省略しています。

いざなぎ流神道の起源の研究

―天の神・御﨑祭祀の起源に関する考察―

はしがき
  高知県の山奥の山村旧物部村に中世に起源をもつといわれる民間信仰がある。その名称あるいは総称は「いざなぎ流神道」と呼びならわされ、今日にまで伝えられている。いざなぎ流神道には「天の神様」「御崎様」といった祭祀がある。この論考は「なぜ天の神という名なのか」「なぜ御﨑という名なのか」という素朴な疑問に始まる。

そこから小松和彦氏による『いざなぎ流の研究』のなかで取り上げられている、戦国時代に京都から旧槇山郷山﨑に落着したという山﨑家の出自とこの祭祀の関係性の有無に興味を持ったことによって問題意識はさらに具体化した。この疑問を解決するにあたって祭祀の名称を手掛かりに様々な資料の考査と調査を実施し、天の神・御﨑祭祀の起源を考察し、ひとまずの帰着を見たものである。

序論
  小松和彦氏は『いざなぎ流の研究』においていざなぎ流神道には中世にまで遡る知識がある、と考えている 。他方、槇山の平家落人伝説について、同氏は槇山の地に平家の落人が入ってきた形跡はないこと、したがっていざなぎ流は平家の落人が伝えたものではないこと、および『槇山風土記』を著した岡内幸盛の出である岡内名本家小松一族は平家の子孫ではないことを明らかにしている 。ではなぜ、いざなぎ流は平家の落人によって伝えられたという伝承が生まれたのか。

この点について、小松氏はいざなぎ流のような膨大な信仰知識が地元の宗教者たちによって生み出せるはずがないという村人の思いであると考えている。村人にはそうした膨大な信仰知識を携えて山深いところにやってくる者とは平家の落人のような高貴な身分の人々しか考えられなかった、というのである。筆者はこの線上で今一度考察を加えたい。

小松氏は天の神信仰は戦国の世に好まれたと考えている 。戦国時代、社会状況は不安定であり、人々は長距離を移動し安住の地を探し求めた。そして道具や物資とともに文化や伝承、見聞が行く先々で伝達された。そうした社会状況を想像しつつ、次のような問いが頭をもたげる。今日その複雑かつ多様な観念や要素を含むいざなぎ流神道は自然発生的に、すなわち宗教性の強い人物や地元住民の宗教心から発生したものなのだろうか。

  私にはあの山深く閉鎖的な地理空間において地域共同体の内部運動のみによっていわば自然発生的に創出された可能性は少ないと考えている。これに伴い、私は以下にいざなぎ流神道あるいは天の神・御﨑祭祀は外来の豪族に伴って来った宗教者によってもたらされたという説を問う。

本論
1.天の神・御﨑信仰に関する専門家の見解と私見
  天の神祭祀の性格は太陽と月を神格化したものであって、その舞の採り物が弓矢や剣であることから戦いの神である。その起源は専当本家から持ち込まれたものである 。他方、御﨑祭祀の性格はバッカイ(天蓋) を揺り動かして行う再生の神である。その起源は定かではなく、「古くからの信仰として生活に根ざしたもの」 である。

  天の神については別府の太夫たちの間に伝わる「天の神祭り」の起源伝承がある。そこでは別府に住む神職家系である惣の市(巫女)が天の神の際式次第を京都で学んできたといわれている。小松氏によれば、天の神信仰は専当本家によって持ち込まれたということだが、そもそも専当氏の氏姓は明らかではないといわれている。岡内名本家小松氏の系図に連なる専当名主沙弥善住が戦国時代に長宗我部氏に仕えた。

この人物が専当氏の先祖であると考えられるが、その素性は明らかではない。尤も、そもそも岡内幸盛が捏造した家系図であるために信頼は置けない。但し、沙弥善住の子孫である専当氏を名乗った家が戦国時代に専当名(「名」について:みょう:戦国時代のいわば行政単位。規模の大きい名のうち1万石以上を領する武将を「大名」と呼んだ)を支配し、専当氏を名乗ったことは確かである。そして長宗我部時代において、この専当家を中心として行われていた五座五等祭を発展させた形で天の神祭祀が岡内家によって慶長15年(1610年)以降に創出された。

  ここで別府の太夫たちの天の神祭り起源伝承に帰ってみる。この祭祀は京都からのものであるという。この場合、天の神祭祀を権威づけるためか、あるいは高貴なものにみせるために「京都」という修飾が付けられたという経緯を推測しうる。しかし、なおここで太夫たちの間で伝えられてきた伝承に今一度の真理契機を見出そうとするならば、京都という文化文物の中心地をこの山深い僻地に結び付ける接点が中世から近世にかけて見出せないかという点を考察せねばならないだろう。このとき戦国時代に京都から来住したと一つの豪族が見出される。山﨑名には外来の家系として高瀬氏があった。だが京都との関係性は見えない。

  京都との結びつきが文書において明確にされており、実際に武士家系として実力があった家柄がある。山﨑名に来住した赤鬼もしくは兵庫という名の者に始まる山﨑氏である。京都からこの山﨑氏あるいは同氏につき従ってきた種々の宗教者が天の神信仰や陰陽師、修験道を槇山にもたらしたと考えられないだろうか。中世から続く惣の市家の祖先は京都から新来の彼らと何らかの接触を持ち、あるいは彼らの家族の一員であり、彼らがもたらした種々の祈祷法や天の神祭祀、御﨑祭祀を受け継いだ。

惣の市や太夫が祀る天の神・御﨑祭祀は京から外来の力ある神あるいは法力として評判を生み、生活に彩りを添え、とりわけ戦国の世において武運長久・豊穣祈願、その他の行事において武士層や裕福な百姓層の関心を集めていったのではないだろうか。なかでも京の都伝来とおそらく謳われたであろう祈祷法術は人気を博したのではないか。しかし、おそらく天の神・御﨑祭祀が山﨑家を中心とした広がりのうちは大規模な祭儀はなかったのではないか。

山﨑家本家は山重亡き後に家長であった山﨑玄藩丞盛高の死(1586年)によって零落し、塩の本家から分かれた分家が高尾へ、高尾の本家からさらなる分家が蔵用へ、蔵用から山﨑土居へさらなる分家が移り、その間に山﨑名の名本家は移り変わり、混乱があったようである 。小松氏は岡内家が槇山郷全体の名本家となり、天の神祭祀の大座を祀り、郷内の他の名や脇名には小座を祀らせた、と考えている。天の神・御﨑祭祀の大規模化はこれ以降であろう。(つづく)

世界遺産登録、次は・・・

富岡製紙工場が世界遺産登録

明るい話題です。

次は靖国神社の世界文化遺産登録を目指しましょう。

竹島は国立公園に指定すべきです。

ある韓国人への回答

以下のような1~12までの質問条項を韓国人から受けました。
それに対して回答しましたので披露します。

1.どうして米軍が韓国様の貴重な土地に駐留する様に成ったのか?
Ans.様々な面、つまり軍事、政治、外交、国際関係から考えるべき事柄だが、とりあえずは自由主義国家のアメリカが共産主義国家(地域)の北朝鮮の砦として韓国を自由主義圏と自国軍を置いた。

2.時々、北朝鮮が、韓国に砲弾等を撃ち込むのは、どの様な理由に依るのでしょう?
A様々な目的による挑発のため。その本質は援助を見返りとした恐喝的行為。

3.朝鮮民族が、北と南に分かれた経過を、はっきり教えていないのは、何故?
A明確に教えようとすると北朝鮮について批判が増えるから。またその過程において朝鮮民族の下劣さを暴くことになるからあいまいにしている。

4.韓国には米軍が駐留しているが、北には中国もロシアも居ないのは何故ですか?
A韓国は独立国家であるため米軍駐留という形をとっている。北朝鮮は元来国家としての実質をもっていないし、ロシアや支那にとって北朝鮮の地は自由主義圏を相手にした緩衝地に過ぎない。

5.日本と戦争をしていたのなら、何故、恨む日本が同胞の北より交流が多いのか?
A韓国は日本と戦争をしていない。むしろ韓国は当時一等国の日本人となり、誇りを胸に支那・米軍などと戦った。

6.日本に勝利したのに、何故、日本は韓国の云う事を聞き入れないのか?
A韓国は日本と戦争をしていないために日本に勝利すらしていない。また、負けたからなんでもいうことを聞かねばならないという理由はない。たとえば、ポツダム宣言も完全無条件降伏を条件とするものではなかった。

7.弱い日本に、何故、強制的に労働者と慰安婦を提供しなければ活けなかったのか?
A日本は弱くなかった。戦争当時には日本人も強制労働(徴用)された。ただ韓国人は金もうけをしたい一心から徴用に応じた。慰安婦については韓国はそれまで清朝へのキーセン貿易など女が売られる文化は伝統的に実に一般的であったから売春すること事態に抵抗が強くない国民性・民族性があったから。これは今日においても同じ。アメリカやオーストラリア、日本には大量の韓国人売春婦がおり、韓国のGDPに大きな貢献をしている。

8.何時から、日本は朝鮮に朝貢をしなくても良くなった理由は何処に有るの?
A日本は朝鮮に定期的に朝貢した歴史はない。むしろ、江戸時代に朝鮮から通信使が来て将軍に実質的に拝謁したことがあった。

9.日本に居る同胞が、何故、日本より素晴しい韓国に帰国しようとしないのか?
A韓国は日本より素晴らしくないからです。彼らの多くは1世当時に日本に不法入国(密入国)した輩ですから国外追放処分してしかるべき存在です。

10.戦争で負けた日本が、勝利した韓国よりGDPが上なのは何故ですか?
A日本人は世界的にみて稀なる勤勉な民族だからです。逆に韓国人は世界的に見て稀なる無能な民族だからです。

11.どうして、独島を一生懸命に韓国領と言い続けなければ活けないの?
Aそもそも歴史的にも国際的にも日本領だからです。

12.そもそも、何時、日本が、韓国と対等に話など出来る身分に成ったの?
Aもともと朝鮮には小中華思想があり、日本を見下していました。しかしその考え方はシナと朝鮮にしか人種差別主義の考え方です。そんな人種差別意識を根強くもつ韓国人を日本人は太古から邪険にせず常に胸襟を開き対話相手となるように接してきました。しかしその努力はこれまで有史以来ずっと裏切り続けられてきました。
 1910年に韓国を併合した時に韓国人が文字が書けるように日本人は韓国人にハングルを教えてやりました。これによって文字による交流を図ったのです。韓国人はいまだの本陣と対等に話せるレベルに達していませんので問そのものが無効です。

大東亜戦争は自衛のためであった

http://www.geocities.jp/ondorion/rooster_roost/rooster_roost12.html

上記において真正保守層をバカウヨと揶揄し、自衛戦争論について誤っているとある左巻きの輩が主張している。公聴会でのマッカーサーの問題の発言箇所がこれ。war was largely dictated by security.この一文については主はこう解釈する。「securityという語に自衛・防衛・安全保障といった意味をあたえることで軍国日本の立場を正当化させようとしたものだ。 実際には、原文を読めばわかるとおり、「保安上の必要から」または「治安維持の必要から」と訳すほうがずっとしっくりくる。 」しかし、これは間違っている。というのも、保安上、治安維持の必要から戦争を起こすことはない。securityが費用であった背景を主は過小評価している。もし単なる保安上、治安維持の必要ということであれば、警察力で十分であろう。マッカーサーのいわんとするところは、当時の日本の立場について国内のセキュリティの目的からではなく、国際的セキュリティの観点から戦争を起こしたということなのだ。

なお、主は問題個所の前の数行の文章を次のように訳している。
マッカーサーは語っている。
「日本では四つの島にほぼ八千万もの膨大な人口がひしめいていたのをご理解ください。……(中略)……彼らは工場を建て、労働力もありましたが、原材料を持ちませんでした。実際、日本には蚕のほか地産のものは何もありません。彼らに、綿はなく、羊毛はなく、石油製品はなく、錫はなく、ゴムはなく、さらに多くのものが足りませんでした。そして、そのすべてがアジアの水域にあったのです。
彼らは、それらの補給が断たれた場合、日本で1000万から1200万人が職にあぶれることを危惧しました。したがって、戦争に突入した目的は、おもに治安を保つ必要からだったのです。

これについて次のように解説している。
「読みながら思い当たったが、これは、持たざる国がファッショ化し、侵略戦争をおこす動機の説明となんら変わるところがない。ナチ第三帝国やファシスト・イタリーの台所事情を語る場合にもそのまま当てはめられるものだ。」

大東亜戦争について主は失業者の暴動を防ぐため、つまり失業者対策としての侵略戦争(さも社会的安全保障とでも言いたげ)と断定したいがために一連の主張を展開していることがうかがえる。しかし、「持たざる国」が戦争を起こしたというのであれば、それはsecurityのためとはいわないであろう。むしろ、国家的安全保障のために戦争を起こしたというのが文脈上無理のない理解です。また、日本はファッショ化したことはない。ファッショ=ファシズムとは一党独裁政治の事です。日本は共産党独裁下にあったソ連のようには戦争前後において一党独裁に陥ったことはない。だから、主のいう<持たざる国→ファッショ化→侵略戦争>という図式は成り立たない。

政教分離の原則に違反…創価学会と公明党の関係

 創価学会は公明党の支持母体であることは政教分
離の原則に反しています。たとえば、先ごろでも集団的自衛権法案に関して創
価学会の見解が自民党の対立項になっていました。自民党が実際的に対論相手に
選んでいるのは公明党ではないのです。創価学会なのです。

この点について元自民党衆議院議
員である野中氏もまさに政教分離に反していると指摘しました。この点に国家の
根幹に関わ国防に創価学会が大きく関与しているという点は国防上極めて危
険です。宗教団体政党であるならば、当然支持母体の宗教トップの意見を 当然
うかがわねばならないでしょう。

そうであれば、いやがおうでも宗教者が自政党を通じて国
政に物を言えるという構図から逃れられません。本来なら
ば政党を持つこと自体を避けるべきです。それこそが本来の宗教者の姿で
す。

創価学会の名誉会長成大作(池田大作)は北朝鮮出身と噂され、創
価学会の組織はいわゆる共産党コミンテルンのそれと類似しています(その例
がSGIというインターナショナル)。多くの創価学会マネーが北朝鮮に献金
されているともうわさされています。

また、政治には利権がつきものです。
宗教団体は利潤追求団体でないからこそ宗教法人として認められ、法人税が
免除されているのです。しかし、政党を持てばまず選挙に金がかかりますし、多くの人
間や組織の利害関係の中で政治活動をしていくことになります。

そのために当然支持母体の
宗教団体も利害に関与し、選挙資金のために利潤を追求するようにならざる
を得ません。それが今の創価学会と公明党の在り様なのです。創価学会は宗教法
人として登録されているのならば、利潤を追求しない、利害に関与しないと
いうことを世間に表明するうえでも公明党という政党を持つべきではありません。

主権回復を目指す会の代表者であるの西村修平氏は、東村山市議であ
った朝木明代氏が創価学会の陰謀により謀殺されたと主張しています。このこ
とに関する街頭演説において創価学会関係者による妨害行為もあるらしいのです。
さらに、過去には暴力団の山口組系の後藤組組長が創価学会の応援に犯罪に関与したことが
組長自身のインタビューと記事によって暴露されています。
公明党の支持母体は創価学会や暴力団、朝鮮系組織なのです。
日本の国政を左右する政党が特定の宗教、反社会的団体、外国スパイと
利害関係をもっているとは言語道断です。
この点について多くの人に関心を持っていただき、
創価学会の闇を知ってほしいものです。

プロフィール

 軽部勇人

Author: 軽部勇人
A missionary in this Cyber Church

職業:医療関係
過去には10年ほど某教会の牧師をやっていました。他にもアルバイトを含め、さまざまな仕事を経験してきました。

趣味:哲学書・神学書の翻訳味読、歴史書精読(近現代史)・戦国史研究、民俗学研究

特技:ランニング
35年以上やってます。
10代は走力の限界への挑戦。
20,30代以降は身体的・精神的カタルシス効果の獲得。

信条:近現代史に関して、おそらく日本でオンリーワンの認識をもつミッショナリーです。反日活動家の侮日発言や特亜三国の歴史捏造に対してプロテスト(抗議)します。

なお、統一教会、ものみの塔、モルモン教会とは関係ありません。

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