遠縁のキリシタン 桑名タミアン古庵

以前、某教派に所属して牧師をやっていたころ、周囲にはクリスチャン2代目や3代目の先輩牧師や同僚牧師がいました。私はクリスチャン1代目のため、寂しいというわけではないですが、キリスト教界の血の濃さにある意味辟易していました。

そんな私になんと最近、今から400年ほど前にクリスチャンの遠い親戚がいたことがわかりました。その親戚というのが古庵という人物です。洗礼名をタミアンといい、彼は父方の姓を名乗り、桑名タミアン古庵と呼ばれていました。

どういう血筋かといいますと、私の母方は野中姓です。その先祖の中に戦国時代に長宗我部家の若年寄であった野中三郎左衛門親孝という武将がいました。この野中氏の近隣に長宗我部氏の家来である五百蔵氏がいました。親孝の妹が近隣のこの五百蔵家に嫁ぎました。(あるいは養女になりました。)

そこで儲けたのが茂(しげ)という女の子でした。(あるいは親孝の妹が茂だった。)長宗我部元親はこの五百蔵家に三家老の一人である桑名家から婿養子をとらせました。この婿養子と茂との間に生まれたのが古庵でした。古庵には兄弟がいました。讃岐にいた長男の権之丞はすでにキリシタンであって、この兄を訪れた際に影響を受けてキリシタンとなりました。

ということでほんとにまったく遠い、遠い、遠い親戚筋ということなんです(笑)。江戸幕府のキリシタン弾圧の方針の下で土佐に帰って医師をしていた桑名タミアン古庵は土佐藩にキリシタンの咎で捕らえられ、その後47年間幽閉生活を強いられました。
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好きな言葉

今、読んでいるJean-Luc Marion の Dieu sans l'etre。

そこにドイツ人哲学者Heideggerの次の言葉がフランス語で綴られています。 

La foi n'a pas besoin de la pensee de l'etre.

意味は、「信仰は存在の観念を要しない」。

神を信じる人に「神なんか、いるものか」と反論する人がいます。
一般的に、信仰はその信仰の対象の存在があってこそ成立するものだ、と考えられているからです。

しかし、聖書は神の存在を証明していません。
神が存在するということは自明のことだからです。

聖書は神の存在を疑うことなく、またその証明を必要と考えることもなく、
むしろそれを前提として物語られています。

この真理契機を哲学的に鋭く言い表したハイデッガーの言葉に表現美を感じます。
プロフィール

 軽部勇人

Author: 軽部勇人
A missionary in this Cyber Church

職業:医療関係
過去には10年ほど某教会の牧師をやっていました。他にもアルバイトを含め、さまざまな仕事を経験してきました。

趣味:哲学書・神学書の翻訳味読、歴史書精読(近現代史)・戦国史研究、民俗学研究

特技:ランニング
35年以上やってます。
10代は走力の限界への挑戦。
20,30代以降は身体的・精神的カタルシス効果の獲得。

信条:近現代史に関して、おそらく日本でオンリーワンの認識をもつミッショナリーです。反日活動家の侮日発言や特亜三国の歴史捏造に対してプロテスト(抗議)します。

なお、統一教会、ものみの塔、モルモン教会とは関係ありません。

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